こんにちは、タカッシ―です。
今日は3.11の東日本大震災についてのブログです。
実はいままであまり人に話すのはどうかな。と思っていた部分があり、自分の中にしまい込んでいた話ですが、記憶があいまいになってきた部分もあり、忘れる前に文章として残そうと思い、今回ブログに残すことにしました。
今年で、丸9年を迎えますね。タカッシ―は仙台で被災しました。と言うか、思いっきり仕事中でした。
いまでも、テレビの緊急地震速報をを聞くと身が竦みます。
たぶん、一生忘れられない。そんな震災の記憶です。
その中でも、今回はタカッシ―が仕事として関わった東日本大震災の記憶を忘れないように文章にしたいと思います。
平成23年3月11日2時46分。タカッシーは職場である高齢者福祉施設の事務所でその時を迎えました。
パソコンソフトの業者さんと新しく導入を検討していた高齢者の管理システムの説明を受けていた時、事務所にいた職員の携帯電話から一斉に緊急地震速報が流れ出しました。
その直後、今まで体験した事のない揺れが自分を襲い、立っていられなかった事を覚えています。なかなか収まらない揺れに、業を煮やして、揺れた地面を両足でしっかり蹴りながら自分の施設まで走りました。
施設の中は、特段建物に被害はなかったのですが、電気と水がすでに供給ストップで非常電源も30分で切れてしまい、直ぐに漆黒の闇が施設を包みました。
余震が永遠と続く中、各お部屋で一人で休むのが怖い。との利用者が大半で、食堂の端の約8畳の座敷に布団を敷いて、皆で体を寄せあって寝たのを覚えています。
寒い夜でした。いつ終わるともしれない余震と携帯電話からの緊急地震速報。よく眠れずに夜を明かした記憶があります。
食べる物もわずかに備蓄していた、災害用のお米や水、そしてクラッカーのみ。3日目には食料が底をついてしまいました。
緊急で買い出しに行き、外で火を焚いて、温かいスープを厨房の方が作ってくれて、職員も利用者もみんな一緒に食べました。温かい料理がこんなにも美味しく、安心する事を恥ずかしながらその時初めて知りました。恵まれすぎて育ったんですね。きっと。
なんとか、みんなで力を合わせて毎日を過ごしていたある日。今にして思えば、福島の原発の建屋の屋根が爆発で飛んだ日なので、地震があった日からそんなに日数は経過していなかったと思います。
普段から呼吸器に障害があり、定期的に看護師が痰の吸引機で痰を吸い出していた車椅子の男性利用者が、停電の為、吸引できずに気が付いた時には、酸欠になっており、救急車で東北大学病院へ運んだ時の事。
流石に東北で一番大きく設備が整っている病院だけあり、非常用の電源も燃料さえあれば継続的に電気を起こして、テレビも見られる状態でした。
診察室の近くで廊下にあるテレビを見ながら、家族の到着を待っていた時の事。その日の朝に福島原発の建屋の屋根が爆発で吹き飛んだ。とのニュースを聞いており、その続報がテレビで流れ続けていました。
その爆発の際に何人かの原発作業員が放射能を浴びてしまい、除染が必要との緊急ニュースが飛び込んできたんです。テレビの報道アナウンサーも緊張した声で何度も同じ内容を伝えていました。
その時、タカッシ―が座っていた近くの診察室から大きい医師の声が聞こえてきたんです。大きい声と言うか、それはもはや怒鳴り声でした。
「テレビで除染なんて、簡単に言わない方がいい!!」「ここに運ばれたって、出来る事は限られているんだ!」「この緊急時に物資も人手も不足しているんだぞ!!」「なんで、東京に運ばないでここなんだ!!」
そうです。勘が良い方は、ここで気が付きましたね。医師が話していたのは、おそらく福島原発の関係者。もしくは、日本の政府機関の人間。
考えてみれば、原発があるのは福島。東北で一番設備が整っていて、人的、物的な資源があるのも東北大学病院です。
屋上にはヘリポートもあって、廊下にも援助に来てくれた「京都のレスキュー隊」や「大阪レスキュー隊」が津波で被害のあった沿岸地域からヘリで運んできた要救助者をタンカに乗せて走り回っています。
福島原発から一番近くて、災害拠点として機能している病院はココなんです。
タカッシ―は思わずテレビで必死に除染について伝えているアナウンサーと診察室の中で話している医師を交互に何回も見てしまいました。
ああ、このテレビの中の話を目の前で電話でこのドクターが喋っているんだ・・・。なんだか不思議な感覚でした。現実味がない感じ。どっかの映画館で映画を見ている。少し大げさに言えばそんな感じでした。
そんな事を考えていたら、ドクターが「じゃあ、運んだらいいさ!何ができるか、どこまでやれるかわからないけど、それを理解して、ココに運ぶって言うならそうしたらいい!!」と言い放ち、ガチャン!と電話は切れました。
それから、病院中が急に慌ただしくなったのを覚えています。
正面玄関ではなく、いわゆる裏口に人が集まりだしたんです。
マスクと手袋だけじゃなく、何人かは完全防備。本当に映画の中で危険な病原体を扱う人間(映画アウトブレイク)のように、全身防護服の人もいました。
ああ、本当に放射能で汚染された(表現がよろしくないですが、勘弁して下さい)人達が今からここに運ばれてくるんだな。と強く現実に起こった事の重大さを認識させられる光景でした。
幸か不幸か、その作業員達が到着する前にタカッシーが待っていた家族が来て、引継ぎをし、タカッシー達は東北大学病院をあとにしました。
なので、本当に作業員達が運ばれてきたのか、除染が実際行われたのかは、この目では見ていません。でも、おそらく運ばれてきたのでしょう。そして除染も行われたんだと思います。たぶん、日本で初めて病院で行われた放射能除染として。
このことは、記憶にある限りテレビや新聞では報道されていません。きっと、風評被害的な事を心配したのか、または、途中で目的地を東京近辺の関東地方の病院に変更したのかもしれません。
真実がどうだったのかは、今となっては知る由もありませんが、タカッシ―の記憶の中には東日本大震災の出来事として、大きな部分を占めています。
つたない文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。皆さんの東日本大震災の記憶が風化せずに残る事に少しでもお役に立てれば嬉しです。予定では、もうひとつ東日本大震災に関するブログを書く予定です。よければそちらも覗いてみて下さいね。
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