こんにちは、タカッシ―です。
今日は、東日本大震災のブログです。
先日、9年目を迎え、新型コロナウィルスの影響で、各地の追悼イベントが中止なってしまいましたね。とても残念な気持ちでした。
タカッシ―は、当時今と同じ高齢者福祉施設で働いていました。ただし、部署が違ったんです。ちょっと特殊な部署で、行政との結びつきが強い部署だったんですよ。
東日本大震災が起こり、しばらくは必死に生き抜ていた毎日でした。このブログの前にパート1的な東日本大震災の記録ブログを書いています。詳しくはそちらを読んでください。
今日は、震災から約3ヶ月後の平成23年6月頃のお話です。
タカッシ―の所に仙台市から、ある入所者の受け入れの打診がありました。聞けば、今回の震災で津波被害にあった高齢者福祉施設からの避難入所との事。
いつもお世話になっていた方からの依頼だったので、まずは調査という事になり現地へ行きました。看護師さんと一緒に2人での調査です。
場所は、太平洋側のある施設。実際にあった話なので場所が特定できる表現は避けます。
タカッシ―の施設は山沿いの施設だったので、津波が来たことは、当日はまったくわからず、次の日に仙台厚生病院へいき、号外で知ったくらいでした。
その後の海沿いに行く機会も、なく、遠くに行くのは震災以来ではこれが初めてでした。
海沿い近くを震災後に初めて車で走り、目を疑いました。船があるんですよ。
海にではなく、陸に。田んぼや普通の道路の上。そしてものすごく破壊された建物や道路。運転しながら声が出ませんでした。でも、目の前に広がる光景が現実。震災を忘れられない理由の一つがこの光景です。
そして、調査に行ったその法人は、海のすぐ近くに施設を一つ作りました。その後、ちょっと内陸に入った高台にもう一つの施設をつくりました。タカッシ―がこの時に行ったのは、内陸の高台にある施設の方です。
3月の震災で海沿いに建てた施設は津波の被害に遭ってしまい、その施設からの避難入所の依頼でした。
あれだけの地震とその後の大規模な津波。遠慮がちに建物以外に被害がなかったのか尋ねました。仙台市の担当者に聞いたのか、施設の職員に聞いたのかは覚えていません。
今でもハッキリ覚えているのは、被害の規模と亡くなった人数の多さです。
建物は、勿論全壊。
入居者は総勢80名いたそうですが、助かったのは約30名。約50名が津波の犠牲になったとの事。
そして、残念ながら職員も。タカッシ―が訪ねて行った時に対応してくれた職員は総勢5名。当日休み等で助かった方々。職員は30名弱がお亡くなりになったそうです。
今、ブログを書いていても胸が痛みます。同じ高齢者福祉施設で働く職員として、入所者を置き去りにして逃げ出せなかった気持ちは痛いほどよくわかります。
自分が、その立場だったら・・・。家族や子供の事が頭に浮かんだ瞬間、自分はどんな判断を下すのか。考えても答えはでません。
ある意味、高齢者福祉施設の職員にとって究極の質問かもしれません。同じ状況は、火事や水害などの災害でも起こりえますからね。
そして、約50名の利用者と30名弱の職員が亡くなった時の状況を、一人の職員さんが、ポツリ・ポツリと話してくれました。きっと、話を聞いてほしかったのかもしれません。
地震では、誰一人として亡くならなった為、津波を警戒して、直ぐに非難を始めた。今いる内陸の高台に施設に法人で持っている車をありったけ使って、ピストン輸送をして利用者を運んだそうです。
今回、助かった30名の利用者は第一陣で運ばれた利用者の方々。
職員が第二陣の方を迎えに行き、施設に到着した瞬間、津波が施設を襲った。そう話していました。とても苦しそうな顔をしながら。
そして、もう一人、3月11日お休みで自宅で地震にあった職員さん。助かった5人のうちの一人です。
この職員さんは、地震の後、車で海沿いの施設へ向かったそうです。なんとか施設に到着すると、入り口の門に地元の消防団の方が1人立っていて窓を開けて車から声をかけて話したそうです。
自分は施設の職員だ。心配だから見に来た。施設に入りたい。
危険だから中には入れない。と消防団の方に言われて、押し問答をしていたその時、消防団の方の後ろに、松の木の防風林がありその向こう側が海。その松の木を超えて津波が襲ってくるのが目に飛び込んできたそうです。
その職員さんは、何も言わずに(何か言葉を発する余裕がなかった)車を急発進させターンして、そのままアクセル全開で逃げたと話してました。
バックミラーで津波が迫ってくるのを見ながら、必死で逃げた。と。消防団員を車に乗せていたら、間違いなく2人とも助からなかった・・・。
と、後悔の念にとらわれているように、うつむきながら話してくれました。その職員さんはずーっとうつむいていたので、タカッシ―は顔をよく覚えていません。
タカッシ―に避難入所の案内をしてくれた仙台市の職員さんからも話があり、震災当日は、自分の部署や市役所の回りの人達、家族の安否確認であっという間に終わってしまい、他の事を考える余裕がなかった。
3月12日になり、今回の施設が海沿いに建っている事を思い出し、ガソリンがあまり入っていない自家用車で確認へ行った。
その海沿いの施設まで道がなかったが、なんとか辿り着いてあまりの光景に声も出なかったと話していました。
その施設の門にマイクロバスが刺さって、空中に浮いていそうです。たぶん、利用者を逃がすために、戻ってきた施設の車です。
まだ、支援の手が全く届いていなかった為、その職員さんが大騒ぎして各行政に連絡し、そこからやっと支援の手が届き始めたそうです。その施設の責任者お方ともお会いしましたが、仙台市の職員さんにものすごく感謝していました。
電話もつながらず、救助もできないまま1日目が暮れていき、茫然としていたところに、仙台市の職員が飛び込んできてくれたそうです。
結局、その海沿いの施設から3人から4人の利用者がタカッシ―が働く施設に入所になりました。その後は元気に過ごしていただき、楽しそうな笑顔も何度もお見かけしました。
これが、タカッシ―が体験した東日本大震災の後世に伝えたい記憶のひとつです。このことは、新聞にものりました。でも、こんな話が多くありすぎて、当事者の方々以外にはあまり記憶に残っていないと思います。
世の中が平常であれば、一度に利用者と職員あわせて80名のい人が亡くなったのは大惨事で大ニュースです。
でも震災の時は、日本全体がこんなニュースで包まれていたので、感覚が麻痺していたんですよね。未だに2000人以上の方々が行方不明。亡くなったのは2万人近い方々。
小さい人間の集落なら全員がいなくなってしまう規模です。。。。
ブログで言葉にすると改めて、被害の大きさを感じます。
二度と同じ事は起きないようにと願いますが、日本は火山の国。地面の下には地球のプレートが重なり合っている。残念ながら必ず地震は起きます。遅いか早いかだけです。
地震は必ず起きるもの。
縁があって、東北以外の地域に住んでいる方々がこのブログを読んでいたら、日常的な備えを怠らず、巨大地震に遭遇したらどうするかを自分自身と大切な人達と日頃から話し合って下さい。
幸いにもタカッシ―の回りでは親しい人が震災で亡くなりませんでしたが、それは単に運が良かっただけ。日常的な備えは、生き残る確率を必ず上げてくれるはずです。
東日本大震災の時に海沿いに住んでいた方々のような思いをする人が一人でも少なくなりますように。
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