こんにちは、タカッシ―です。
高齢者福祉施設で、働いて19年目。国家資格の介護福祉士と介護支援専門員(ケアマネージャー)を持っている、現役相談員のタカッシ―が、高齢者の介護を中心に書いているブログです。
今回は、タカッシ―が高齢者施設で働いて、日々感じている事を書きます。たぶん、ケアハウス(元気な高齢者のマンション)で働いているからこそ強く感じることだと思うのですが、高齢者が日々元気に生きていく為に必要な事があります。
何だと思います?
美味しい食事。もちろん必要です。
快適な住まい。無いと困りますよね。
お金。生きていくためには欠かせないものです。
でも、タカッシ―が必要だと思っているのは、このどれでもないんです。
結論から先に言います。ズバリ「役割」です。
は?何を言っているの?と思った方、読むのをやめずに我慢してもう少しお付き合いお願いします。最後には結構、納得して頂けるはずです。
タカッシ―は現在43歳で、結婚して子供もいます。有難い事に定職にもについて、毎日働かせていただいております。
タカッシ―の役割は、子供の「父親」妻の「夫」職場では「高齢者施設の職員」両親から見たら「息子」3人兄弟のタカッシ―は「兄」であり「弟」です。タカッシーの同級生から見たら「友人」親戚から見たら「いとこ」や「はとこ」「叔父」等々ですかね。
今は、この役割が24時間ついてまわり、結構忙しいです。何も役割が無い時間は1日の中であまりない状態です(なので、喫茶店でぼーっとする時間はタカッシ―には大事な時間です…)
さて、ケアハウスに入所している平均年齢85歳の高齢者の事を考えてみましょう。
「親」としては、もう子供が独立して50歳~60歳なので、形式的には親ですがその役割は見守る事…程度ですかね。
「夫」又は「妻」としては、残念ながら伴侶が亡くなっている方が大半です。仏壇に毎日手を合わせる事ぐらいしか役割は果たせません。
「仕事」の役割は、もう退職されている方が大半ですし、専主婦としての役割も残念ながらもう終了している方々です。
「息子・娘」「兄弟・姉妹」としての役割も残念ながら、親が亡くなっていたり、兄弟も遠く離れた場所に1人いるかいないか…連絡も取っていない方が大半のような印象を受けます。
最後に「友人」ですが、先日93歳の元気な男性高齢者からこんな話を聞きました。その方は秋田出身で、毎年同級会を楽しみに秋田へ帰っていたのですが、前回の同級会は3人しか出席せず、3人とも元気だったのですが今回でもう最後にしよう。との話でまとまった。
たぶん、当時は何百人の同級生がいたはず。いまは大半が亡くなり、最後の3人だと話してました。
そうなると、「役割」がないんですよ。
先日ある利用者から言われた非常にショッキングな言葉を書きます。 言い方は非常に良くない、いや悪いのを承知で書きます。「もう、何もないから、あとは死ぬのを待つだけだ」さすがに言葉が出ませんでした…😭
人間、住む場所と食べるものと自由になるお金だけあっても、幸せじゃないんですよね。
タカッシ―は「役割」と表現しましたが、「生きがい」や「楽しみ」と表現しても間違いではないと思います。毎日やる事がある。それだけで元気に過ごしていけると思います。
タカッシ―の施設では、皆さんがテーブルを台布巾を配ってくれたり、醤油差しを片づけてくれたり、食堂や共同スペースのカーテンの開け閉めを手伝ってくれる利用者もいます。「役に立ってる実感がほしい」だいぶ前ですが、こんな言葉を聞いた記憶もあります。
社会の為に何かやれる事。生きてる実感が欲しいんだと思います。
別の施設にいた時には、生活保護を何十年と受けてきた男性利用者が大学病院へ献体(医学生の解剖授業等で使用されます)を申し込んでいました。「税金を使って迷惑をかけて生きてきた。何も世の中に何も貢献できなかったから、せめて死んだ後に役に立ちたい」今でも考えさせられる言葉です。
タカッシ―も明日から、全部の役割を取り上げられたら、どうなるか?ちょっと想像できません。
まとめ
人間は「役割」がないと生きていけない。高齢者も若い人も同じ。
高齢者は、年齢と共に役割がひとつずつ減っていく。最後には自分だけしか残らない。
「役割」は「生きがい」や「楽しみ」の言葉に置き換えられる。
毎日、仕事に中で皆さんに生きがいを提供できるように頑張っていますが、なかなか難しいです。寝たきりや車椅子の方が大半の特別養護老人ホームだと事情は少し違ってくるのですが…同じことは言えると思います。
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